山口 聰(野菜茶業試験場久留米支場花卉研究室)
注:この文章は私が久留米支場に勤務していたときに開催された第1回国際アザレア・シンポジウムのために書き下ろしたものです。シンポジウム記念として出版された久留米のつつじ(葦書房)の一部でもあります。
正保年中とは三代将軍家光の治世中の1644年から1647年にかけてのことです。 家光は代々の将軍の中でも花好きで有名です。全国各地の大名はこぞって領地 内にある珍木奇草の類を献上したものと考えられています。霧島の三木も、恐らくその当時の“花狂い”の世相を反映して、薩摩から運ぱれたのでしょう。 一書によれぱ藤堂高虎、藤堂高次という藤堂藩の屋敷には全国からの珍らしい 植木が集められていて、その中に霧島ツツジも含められていたとされています。 先の文中の武江染井というのは、当時の樹芸家、伊藤伊兵衛政武の庭園のこと で、実は政武は藤堂家お抱えの御庭番でした。明暦二年に政武のもとに下げ渡 されたと書かれているのは、三代家光の頃に献上されたものが家光の死後、四 代家綱の時代の出来ごとと考えられます。徳川時代になって戦乱の世が治ま り、平和な生活が続き、一般の人々の気持にも落着きが見え出した頃から、園 芸植物を大事に育てることが流行しはじめました。花狂いとまで評判された三 代将軍家光の頃にはその頂点に達していたようです。大名屋敷、町人達の住居 その他の任宅建設が進み、造園材料としての植木への関心も特に強くなったの も、その一因です。また、庭のない長屋住まいの人々は、鉢植えにして、いろ いろな花を楽しみ、近郊の名所へ花見などの物見遊山へと出かけることも盛ん になりました。一斉に咲きほこる霧島も当時の人々に多いに好まれ、あちこちの神社仏閣の庭園に盛んに植込まれるようになりました。しかし霧島の品種改 良はほとんど進展しないままでした。白然の色変り個体を見つけ出して江戸へ 送られて来ましたので、その類はほんの少しのままでした。しかし、江戸で大 流行した霧島は、次第に日本の各地に行き渡り一般的な花木になって行きまし た。江戸で実生からできたのは日の出霧だけと考えられます。
霧島が飛躍的に改良されたのは、人工的に種子を播いて、沢山の変り物を育 てる技術が確立された幕末の頃です。それは、久留米藩の武士(御馬廻役、三 百石取り)、坂本元蔵の功績です。霧島に熱中した坂本元蔵は、きっともっと 沢山の色、花型を望んでいたことでしょう。枝変りを待つのも根気のいる仕事 ですし、山採りの色変りを見つけに行くことも、御大身の身分ですので自分勝 手には出かけられません。変りものを作り出す第一段階は、種子を播いて沢山 の実生を育てることです。これは、育種学的にも大変に理屈に合っています。 花粉や卵子が出来て、相互が合体するまでの受精の過程で、いろいろな遺伝子 がその組合わせを変え、全く新しい遺伝子組合わせになるため、沢山の品種を その後代から選び出せます。しかしツツジの種子は普通の用±では簡単には発 芽してくれません。坂本元蔵も最初は何回も失敗を重ねた事でしょう。或る日、 自然に生えたコケの中に、ツツジの小さな芽生えを見つけ、コケまき法のヒン トをつかんだと言い伝えられています。数年後には次々と新花を咲かせること が出来たはずです。坂本元蔵はコケまき法を開発したことだけではありません。 白分の開発したコケまき法を惜し気もなく同好の人々に教えたことも彼の偉い ところです。あっというまに百近い品種が作り出されました。
時代が変わり、明治、大正となりますと、遺伝学の知識も広まり、花粉貯蔵 の技術も開発され、人工交配によって育種が行われるようになりました。 明治末までは関東地方では「霧島性」と呼ぱれ久留米地方では「小霧島」と 呼んで「きりしまつつじ」と同一視されていました。明治28年に古村利平、淵 上禰八等が当時200余品種あった小霧島の改良種の中から高砂、桂之花、位の 紐、暮の雪、線香屋絞、虞美人、吾妻鏡、難波潟、蔦紅葉、児遊、摺墨の11品 種を選択し、霧島と兵ることを明らかにするため「錦光花」の名称で天覧に供 しました。これから関東、中京、関西では錦光花と呼ぶようになりました。明 治36年に大阪で開かれた内国博覧会に赤司廣楽園が錦光花を出品したとき観客 がこの美しいツツジを見て口々に久留米のツツジと呼んだことと、当時は久留 米耕の評判が非常に高かったので、これから後は赤司廣楽園では「久留米鄭燭」 という名称で売出しました。しかし久留米の名が一般的となったのは明治27年 に赤司廣楽園が久留米榔燭誌にこの名を用いたのが最初の記録と考えられます。 他の生産者や育種家達は明治末まで小霧島または錦光花の名で呼んでいました。
その後も多くの人々によって品種改良が行われて、現在では延べ750を越え る品種名が記録されていますが、絶えた品種もあって、今でも目にすることが できるのは300品種ほどです。小輪で多花性、しかも一斉に開花し、花の色も 多彩で明るいのが久留米ツツジの特長です。
久留米ツツジの改良の母体となったのは霧島と呼ぼれるツツジであることは 間違いありません。そして、この霧島は鹿児島県の霧島山中より連び出された と言い伝えられています。また、霧島山を管理していた、山奉行の出した御触 害きには、山中より持出すことを禁じたものの一つに「霧島」が含められてい ます。その年代は延宝とありますので、正保より少し後、元禄のいく分か前の 頃のことでした。ですから江戸時代のかなり早い時期から霧島山中のツツジは 鹿児島県外へ移出されるほど人気が高かったことが判ります。
坂本元蔵が育て たツツジは、江戸から広がって普及していた、今でいう江戸霧島なのか、当時 霧島山中より何らかのルートで入手した霧島なのかは確かではありませんが、 いずれにしても、その母株のルーツは高千穂の峰にそびえる霧島山域、特に霧 島神宮より上のところに生育する野生種にあることは大方の研究者の認めると ころです。実際に霧島山域では山の中腹あたりに、色の多様な、現在の久留米 ツツジに大変よく似たツツジの群落が見付かります。これは、山頂部のミヤマ キリシマと山麓部のヤマツツジとの自然交配によって成立した中間型個体群落 と考えられています。久留米ツツジの品種の中で、比較的古い頃の品種にも、 小輪で紫の濃い花の品種がいくつかある、誰もがミヤマキリシマの血を引いて いるものと考えていますが、霧島山のヤマツツジとミヤマキリシマとの白然雑 種が母体となった園芸ツツジであれぼ十分に納得できる推論です。霧島山麓の ヤマツツジを始めとして、鹿児島県中部から南部にかけて自生するヤマツツジ は、葉が大型で丸味が強く、葉質も薄手であるなど、他の地域のヤマツツジと 果なる点が多いことから、サタツツジとして区別されることが多いツツジです。 この考えに従えぼ、久留米ツツジの原種は、ミヤマキリシマの形質をいく分か 取り込んだサタツツジと言うことになります。
いずれにしても、久留米ツツジ 品種にある濃紫色の小輪花品種の成立にはミヤマキリシマが関与しているはず だとの前提に立っているものと思われます。現在のところ、いわゆるサタツツ ジが久留米ツツジの野生種だとする考えが主流だと言えます。しかし、紫色の花色の由来をミヤマキリシマに求めた場合でも、霧島山の他にも万年山のよう に久留米にごく近いところにもミヤマキリシマの自生地があります。実際に万 年山でもヤマツツジとの白然交配が起きていて、いわゆる「霧島」類似の個体 も見つかります。今後とも様々な手法で久留米ツツジのルーツを探る努力を続 けること が必要だと思います。